沈黙という時間

おどる漱石のプロローグは、

男性ふたりの沈黙の間合いではじまる。およそ一分間の沈黙だが、ステージ上

の無言の一分は長い。音も動きもない一分に観客はどうつきあうのか?この時

間は、中学生の日常にはないはずである。出会ったことのない沈黙の一分に、

彼らは大いに戸惑ったようである。このまま、50分終わってしまうのではな

いだろうか?と不安になったかもしれない。ダンサーが演じることを忘れて立

ち尽くしているのかと訝ったかもしれない。そして、緊張が極度に高まったと

ころで、場面は転換する。

 

9年ほどまえに発表した《A sitting MAN》という作品では、冒頭5分ほどの

沈黙からはじまる。坐る男性ふたりが、ひたすら沈黙のまま観客と対峙する。

一定以上の時間が続くと、観客と演者の<見る><見られる>という関係性は

図らずも転換してしまう。演者から見られることになり、とりわけ最前列の観

客は、視線に耐えきれずにもじもじしたりする。


人と人が向き合ったときに、長い沈黙は空気を動揺させる。場をつなぐために

言葉を発する。または、言葉のかわりに音楽や街の喧噪があったりする。そう、

現代人は、静寂や沈黙とのつきあい方に慣れてはいないのである。

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silence_dancer=河合 悠、野老真吾

photo=tomohiro KATOH<office Perky pat>