先日、ある女性からダンスを習いたいと相談事を受けた。
仕事と家庭だけの日常で、自身の生活に非日常がないことを憂いているご様子で、
日常に非日常を取り込みたいと仰る。職場の同僚は音楽をまったく聴かない。小
説も読まなければ映画も見ない。展覧会や舞台公演などには、もちろん足を運ぶ
はずもない。プライベートでおつきあいのあるママ友たちもご同様であるとのこ
と。彼女の口から語られる文化芸術が非日常であるということに、まず新鮮な驚
きがあった。私や私の身辺の友人たちの生活から察するに、文化芸術は、日常の
なかにあたりまえのように組み込まれており、文化芸術=非日常であると云う発
想がなかったからである。
昨今のニッポンは、いろんな意味で余裕がなくなってしまっている。お金という
価値に過大評価の偏重があり、文化芸術などは片隅に追いやられている印象を受
ける。
かたや、ヨーロッパの先進国(フランス、ドイツ、オランダ、ベルギーetc.)で
は、月曜日に出勤すると、週末にどんな映画や美術展、舞台公演に行ったのか話
題になるそうである。ニッポンでは、考えられない職場事情である。大企業に勤
める友人が、職場で文化芸術に関する話題に一切触れられないことをよく耳にす
る。偶然、観覧に出向いた公演会場で出会った私のような酔狂な輩をつかまえて、
最近観た舞台作品や映画のことを熱く語られたりする。よほど、語りたい欲望が
たまっていたのだろうなと推察しながら同情してしまう。いつからニッポンは、
こんな国になってしまったのだろうか?
たとえば、いまや国際評価の高い小津映画が、小津の現役当時に一般の観客が来
場していたのだろうか。その当時を知る知人に疑問を投げかけてみた。すると、
どうも小津映画は一部のインテリ層だけに評価されていたのではなく、市井の人
々が、中流家庭の淡々とした暮らしの奥深さを味わう格好の教材であったのだろ
うと教えてくれた。そしてそれが、原節子や佐田啓二、岡田茉莉子たちの眉目麗
しい俳優たちによって、演じられる馥郁たる映画的時間を堪能していたのでは、
ということらしい。
つまり、60年前のニッポン人には、いまでは喪失してしまった文化的芸術的価
値を許容、享受する精神が宿っていた。現代では、小津映画の上映される劇場に
観客が詰めかけるとはとてもおもえないのである。窮屈で余裕なき我が国の精神
生活に憂える次第だが、この話題はまたあらためて記したいとおもう。